二人はアリスの部屋に移動した。アリスは俯いていた。
「ランプは付ける?」
「このままでいいわ」
先ほどあれだけ己の心情を吐露したアリスだが、今は逆に冷静になっていた。そして冷静になればなるだけ顔が紅潮していたので、ランプを付けられるのだけは避けたかった。青年もそんなアリスの状況を理解していたのか、ランプは結局付けなかった。月の光だけが部屋の照明だった。薄暗い部屋の中、二人は並んでベッドに腰掛けた。
沈黙の時間が過ぎる。それは決して居辛くは無く、むしろ二人にとっては最上の時間だった。それでも数分が経った後、青年の方から話を切り出した。
「じゃあ、昔話をしよう。僕がここに来るまでのいきさつをね」
「ランプは付ける?」
「このままでいいわ」
先ほどあれだけ己の心情を吐露したアリスだが、今は逆に冷静になっていた。そして冷静になればなるだけ顔が紅潮していたので、ランプを付けられるのだけは避けたかった。青年もそんなアリスの状況を理解していたのか、ランプは結局付けなかった。月の光だけが部屋の照明だった。薄暗い部屋の中、二人は並んでベッドに腰掛けた。
沈黙の時間が過ぎる。それは決して居辛くは無く、むしろ二人にとっては最上の時間だった。それでも数分が経った後、青年の方から話を切り出した。
「じゃあ、昔話をしよう。僕がここに来るまでのいきさつをね」
アリスは黙って頷いた。話し始めようとする青年の顔は、どこか遠くを見るような面持ちだった。その顔を見て、アリスはすぐにあまり良い話ではないことが分かった。
「無理しないで」
「え?」
「わからないの? 貴方、凄く辛そうな顔してた」
「そ、そう?」
「とぼけてもダメ。嫌な話なら、無理にしなくても……」
そう言うアリスに青年は微笑んだ。アリスには、その笑顔がすぐにでも砕けそうな、まるでガラスのように見えた。
「いいんだ。僕の記憶が戻ったら、それが何であれアリスには真っ先に話そうと思ったから」
そして、再び青年はゆっくりと話し始めた。アリスも観念して青年の話を一字一句逃さないように耳を傾けた。
「僕は、幸せだった」
予想と反した言葉に、アリスは驚いた。話したくない内容のはずなのに、と思っていたが、青年の言葉には続きがあった。
青年は自分の掌を見ていた。
「僕には妻がいた。もちろん仕事には就いていたけど、面白くもなんとも無かった。だけど、妻がいるだけで僕は幸せだった。彼女の手は小さかったけど、手を繋いだ時の温かさが僕は大好きだった」
「どんな人……?」
つい気になってしまい、訊いてしまう。言った後で後悔したが、青年は笑いながら話した。
「明るく、静かな人だった。彼女の幸せは僕の幸せで、僕の願いは彼女を幸せにすることだった」
青年が妻と言う人の事を話す姿はとても楽しそうで、アリスは少しだけ青年が妻と呼ぶ人に嫉妬した。しかし、青年の顔は次第に冥くなっていった。
「でもね、僕は妻を守れなかった」
「え?」
「その日、妻は買い物に出かけていた。その帰り道、自動車事故に巻き込まれて……帰らぬ人になった。僕はその時仕事中だった。最愛の人の最期を、僕はこの目で看取ることすら出来なかった」
青年は、声が震えていた。暗いせいでよく見えなかったが、アリスは青年が泣いているんだろうと思った。青年は震える声を押し殺しながら話を続けた。
「その後はまるで人生が終わってしまったかのようだった。仕事も行かず、ただ時間が過ぎるだけだった。何をしていたかも覚えていない、多分何もしていなかったんだろうね。そして、ある時視界が不意に真っ暗になって、意識も途切れ……気がついたら、この家にいた」
アリスは何も言えなかった。言えないというより、言うべきでないと思っていた。そしてただ何も言わず、黙って青年の顔を己の胸に埋めた。
「うぷっ!?」
「貴方の奥さんには遠く及ばないかもしれないけど……どう、温かい?」
青年の方も、何も言わずに頭を上下させた。
「何か他にして欲しいこと、ある?」
アリスは出来るだけ元気な声で言った。青年を元気にするには、自分が元気でなければと思っていた。青年はアリスの胸に顔を埋めたまま、ポツリと言った。
「……が見たい」
「へ? 何を?」
「アリスの、ま……が見たい」
アリスは一瞬思考が止まった。声は元気に、努めて冷静に聞き返す。自分の耳が間違ってなければ、青年は大変な事を言ったのではないかとアリスは緊張して いた。まさか、青年に限ってそんなこと言い出すはずが無いと思っていただけに、少しだけショックを感じていた。そんなアリスの動揺には気づかず、青年はア リスの胸から顔を離し、アリスを見つめていった。
「だから……」
「だ、だから?」
「その……見たいんだ、アリスの魔法」
「え、えぇ?」
青年は確かに言った、『魔法』と。アリスの予想とはまったく違った事を言ったので、逆にアリスは肩透かしを食らった感じだった。とはいえ自分の予想通りの事を言われていたら、と思うとアリスは胸を撫で下ろした。
「ほら、町で見せてくれただろ? あれをもう一度見せてくれないかな」
「あんなのでいいの?」
「僕にとっては凄く印象に残ってるんだ。多分この機会を逃したらもう見れないだろうから、今度はしっかりと目に焼き付けておきたくて……」
「わかったわ」
アリスは立ち上がると、両手を空中に掲げてくい、と何かを引っ張る動作をした。その直後、部屋に飾ってあった人形が一斉にアリスの周りに集まった。その数は町で見た数の比ではない、二倍、三倍ほどの人形がアリスの周りを漂っていた。
「貴方の為の、貴方だけの、人形劇を始めるわ」
アリスの両手が舞うように動く。それに呼応するかのように様々な人形が様々な動きを始めた。ある時は皆同じ動きを、またある時は皆が違った動きを。その 動きはあたかも人形達が自身で動いているかのようだった。生を感じさせる動きに、青年は目を奪われた。そして人形達の動きも大きくなってラストに近づいた 時、不意に人形達が青年の元に向かってきた。
「えっ?」
人形は素早く青年の背後に回りこみ……青年の動きを拘束してしまった。腕を掴んだり、服の裾を掴んだりといった感じであらゆる人形が青年の動きを阻害す る。青年も体を動かそうと努力したものの、人形の予想外の力の強さの前では殆ど動けなかった。青年は驚いてアリスに訊いた。
「これは……どういうこと?」
「これはね」
そう言いながらアリスは青年の方に歩み寄ってくる。その姿に青年は初めて少しばかり恐怖した。
「こうするためよ」
「んぷっ!?」
青年には何が起きたか分からなかった。ただ、アリスの顔が一気に目の前に来たと思ったら、唇に何かを押し当てられた感触。数秒後、呼吸がまた出来る様になってから青年はようやくアリスがやった事を理解した。理解した途端、顔が赤くなる。
「ア、アリス……?」
しどろもどろに問いかけるが、アリスも顔を真っ赤にしていた。自分を捉えていた人形も、今は全然力を感じない。
「だ、だってこうでもしないと恥ずかしいじゃない」
「……は?」
顔を真っ赤にしながらそんな事を言われても、まったく説得力は無い。とりあえずこれ以上この件を蒸し返すのはアリスにとっても自分にとっても良くないと思ったので、青年は色々と言いたい事がありながらも我慢することにした。
「ん」
自分の唇をなぞる。先ほどまで感じていた柔らかさはもう無いが、温かさはまだ残っている気がした。それでもいきなりの事なので青年は非常に驚いていた、それと同時に疲れてしまった。
「な、なんだか疲れたなぁ」
「え、そ、そう? 奇遇ね、私もよ」
アリスの返しはまだ若干ぎこちない。ここは一人にしてあげた方がいいと青年は判断し、立ち上がる。
「本当に楽しかった、ありがとう。それじ」
「え? 今日はずっと一緒にいてくれるんでしょ?」
「で、でも流石に一緒に寝るのは……」
「大丈夫よ、私のベッドは案外大きいから。ほら」
ほら、と言いつつ布団をまくりあげるアリス。自分と違う部分を心配しているアリスに、青年はなんだか可笑しくなった。それでも青年はやはり心配だったので、アリスに訊きなおした。
「ほ、本当にいいの?」
「もちろんよ。……貴方以外は絶対にお断りだけど」
そういって微笑むアリスを見て、出会った頃に比べて随分と表情豊かになったと青年は思った。自分がそこまで信頼されてるなら、とついに青年は折れた。ベッドに潜り、体を横にする。少し経って、背中に体温を感じた。
「ア、アリス」
「ち、違うわよ、ほら、大きいって言っても一人用だし……」
青年からはアリスの顔は見えなかったが、きっとこんな顔だろう、と勝手に想像した。眠気と言うものは不意にやってくるもので、青年も何回か会話を交わした後、眠りについた。
「……」
がさごそ。青年が寝たのを見計らって、アリスは青年の方を向いた。顔は見えなかったが、広い背中を見つつ、シャツをそっと握り締めてアリスも眠りについた。
「ん……」
窓からの日差しが眩しい。青年は誰に起こされることも無く起きた。時刻を確認する、時計は十時を回ったところだった。いつあの『金髪の女性』がやってきてもおかしくない。青年はまだ寝ているアリスを起こさないよう、音を立てずにアリスの部屋を出た。
「あら、おはよう」
「!?」
居間に、もう彼女はいた。幽雅に椅子に座り、コーヒーを頂いている。驚きのあまり大声を上げそうになったが、彼女の言葉でそれは抑えられた。
「あの子が起きちゃうわよ?」
「っ……」
「ほら、起き抜けにそんな怖い顔しないで。椅子もあるんだし掛けなさいな」
女性に言われるままに青年は椅子に座る。そして、小さな声でまず最初に、
「どうやって入ったんです?」
この家は鍵を閉めてある。青年は至極全うな質問をしたはずだったが、女性は笑って企業秘密と言うだけで、全然回答を教えてはくれなかった。青年の自身に対する不信感を目一杯高めたところで、女性は言った。
「さて、分かってるわよね。還る準備は出来て?」
女性の言葉に、青年は強く頷いた。
「えぇ。もう大丈夫です。ただし……」
「ただし?」
「場所を、場所を変えてくれませんか?」
いいわよ、と女性は快く承諾した。二人は立ち上がり、アリスの家を出た。青年としてはアリスに見られたくなかった。自身が、いなくなる瞬間を。そして暫く歩き、どこだかわからないが森の中まで入っていた。
「ここらへんでいいかしら?」
「ええ、大丈夫ですところで……」
「心配要らないわ、痛くもなんとも無いから。一瞬よ、それですべてが元通り」
女性の言葉はにわかには信じられないが、青年にはそれが嘘で無いとなんとなく分かっていた。女性の方はと言うと、なにやら目を瞑って呪文のようなものを 唱えていた。数秒後、女性が手にした日傘で空間をなぞると、そこから切れ目のように裂け、何とも言い難い色の空間が見えた。
「これは?」
「これが、貴方を非現実から現実に還すための境界。言ってしまえばこの世界のスキマね」
「この中に入る、と言うことですか」
「そう言う事。焦らなくてもいいわよ」
期限を決めた割に随分と適当だな、と青年は思った。ただし、今はそれが嬉しかった。青年は少しでもこの世界を見ておきたかった。
「そういえば、名前を訊いてませんでした」
「私? 私だったら、『八雲 紫』よ」
「ゆかりさんですか、お別れの時に名前を訊くってのも変ですね」
「貴方の記憶は残しておくから、あながち無駄ってわけでもないわ」
双方笑いが漏れる。紫が青年の目を見据えて言った。
「さぁ、覚悟は出来たかしら?」
「……はい」
一歩。また一歩青年の体がスキマに近づく。とうとう後一歩というところまで来た時、不意に大きな声が聞こえた。
「な、何やってるのよ! 待ちなさい!!」
思わず声のした方を見る。遠くから走ってくる人の姿が見えた、もちろんそれは青年が良く見知った者だった。そして、一番最期を見られたくない人だった。
「ハァ、ハァ、ハァ……どうして」
アリスは青年をキッと睨むと、
「どうして何も言ってくれなかったのよ!」
と、青年が驚くほど大きな声を上げた。森の中を走ってきたものだから、所々に生傷が見えた。目には涙も浮かべている。
「最期は、見て欲しくなかった」
青年は観念して、ありのままを話した。しかしアリスは叫ぶように言った。
「貴方も、愛してる人の最期を看取れなくってあんなに悲しそうだったじゃない! どうして……どうしてわからないのよ!」
「あ……」
そこまで言われて青年は初めて気がついた。最期を看取れないのがどれほど悲しいかは自分が一番良く知っているはずだったのに、その悲しみを今度は自分が生み出そうとしていた事を。
「この感情、貴方がいなくなってようやく分かったわ。……貴方を、愛してる。愛している貴方がいなくなるなんて、私は耐えられないかもしれない。だから、せめて最期までこの目で貴方を見ておきたい」
「アリス……うん、本当にありがとう」
青年はアリスの元に歩いていった。自分のちょうど胸元辺りにアリスの頭があった。青年は何も言わず、ただアリスの頭に手を置いた。青年は無言でアリスの頭を撫でる。アリスも無言で青年の手を感じていた。
「それじゃ、僕は行くよ」
撫でていた手を放し、青年がアリスから離れスキマに向かう。アリスはもう涙でよく見えなかったが、これが最後の会話になるだろうと理解した。
「ええ、気をつけて……さよなら、私の愛しい人」
青年の半身がスキマに入る。そして、全身が見えなくなった。スキマも閉じ、そこはただの森の風景が広がるだけだった。
「若いっていいわぁ~」
紫はなんだか意味深な発言を残し、再び自身が作ったスキマに消えた。一人残されたアリスは、スキマがあった場所を見て、呟いた。
「結局訊けなかったな……あの人の、名前」
冷たい風が吹く。身を寄せて暖めてくれる人はもういない。アリスはその場にしゃがみこみ、嗚咽を洩らした。誰にも聞かれないように、小さい声で。
関わりを持つ事を嫌う少女。
成り行き上で関わりを持つことになった青年は、
少女の心に優しい傷跡を残した。
それはとても切なく、暖かいもので、
少女にとって初めての『アイ』だった。
「無理しないで」
「え?」
「わからないの? 貴方、凄く辛そうな顔してた」
「そ、そう?」
「とぼけてもダメ。嫌な話なら、無理にしなくても……」
そう言うアリスに青年は微笑んだ。アリスには、その笑顔がすぐにでも砕けそうな、まるでガラスのように見えた。
「いいんだ。僕の記憶が戻ったら、それが何であれアリスには真っ先に話そうと思ったから」
そして、再び青年はゆっくりと話し始めた。アリスも観念して青年の話を一字一句逃さないように耳を傾けた。
「僕は、幸せだった」
予想と反した言葉に、アリスは驚いた。話したくない内容のはずなのに、と思っていたが、青年の言葉には続きがあった。
青年は自分の掌を見ていた。
「僕には妻がいた。もちろん仕事には就いていたけど、面白くもなんとも無かった。だけど、妻がいるだけで僕は幸せだった。彼女の手は小さかったけど、手を繋いだ時の温かさが僕は大好きだった」
「どんな人……?」
つい気になってしまい、訊いてしまう。言った後で後悔したが、青年は笑いながら話した。
「明るく、静かな人だった。彼女の幸せは僕の幸せで、僕の願いは彼女を幸せにすることだった」
青年が妻と言う人の事を話す姿はとても楽しそうで、アリスは少しだけ青年が妻と呼ぶ人に嫉妬した。しかし、青年の顔は次第に冥くなっていった。
「でもね、僕は妻を守れなかった」
「え?」
「その日、妻は買い物に出かけていた。その帰り道、自動車事故に巻き込まれて……帰らぬ人になった。僕はその時仕事中だった。最愛の人の最期を、僕はこの目で看取ることすら出来なかった」
青年は、声が震えていた。暗いせいでよく見えなかったが、アリスは青年が泣いているんだろうと思った。青年は震える声を押し殺しながら話を続けた。
「その後はまるで人生が終わってしまったかのようだった。仕事も行かず、ただ時間が過ぎるだけだった。何をしていたかも覚えていない、多分何もしていなかったんだろうね。そして、ある時視界が不意に真っ暗になって、意識も途切れ……気がついたら、この家にいた」
アリスは何も言えなかった。言えないというより、言うべきでないと思っていた。そしてただ何も言わず、黙って青年の顔を己の胸に埋めた。
「うぷっ!?」
「貴方の奥さんには遠く及ばないかもしれないけど……どう、温かい?」
青年の方も、何も言わずに頭を上下させた。
「何か他にして欲しいこと、ある?」
アリスは出来るだけ元気な声で言った。青年を元気にするには、自分が元気でなければと思っていた。青年はアリスの胸に顔を埋めたまま、ポツリと言った。
「……が見たい」
「へ? 何を?」
「アリスの、ま……が見たい」
アリスは一瞬思考が止まった。声は元気に、努めて冷静に聞き返す。自分の耳が間違ってなければ、青年は大変な事を言ったのではないかとアリスは緊張して いた。まさか、青年に限ってそんなこと言い出すはずが無いと思っていただけに、少しだけショックを感じていた。そんなアリスの動揺には気づかず、青年はア リスの胸から顔を離し、アリスを見つめていった。
「だから……」
「だ、だから?」
「その……見たいんだ、アリスの魔法」
「え、えぇ?」
青年は確かに言った、『魔法』と。アリスの予想とはまったく違った事を言ったので、逆にアリスは肩透かしを食らった感じだった。とはいえ自分の予想通りの事を言われていたら、と思うとアリスは胸を撫で下ろした。
「ほら、町で見せてくれただろ? あれをもう一度見せてくれないかな」
「あんなのでいいの?」
「僕にとっては凄く印象に残ってるんだ。多分この機会を逃したらもう見れないだろうから、今度はしっかりと目に焼き付けておきたくて……」
「わかったわ」
アリスは立ち上がると、両手を空中に掲げてくい、と何かを引っ張る動作をした。その直後、部屋に飾ってあった人形が一斉にアリスの周りに集まった。その数は町で見た数の比ではない、二倍、三倍ほどの人形がアリスの周りを漂っていた。
「貴方の為の、貴方だけの、人形劇を始めるわ」
アリスの両手が舞うように動く。それに呼応するかのように様々な人形が様々な動きを始めた。ある時は皆同じ動きを、またある時は皆が違った動きを。その 動きはあたかも人形達が自身で動いているかのようだった。生を感じさせる動きに、青年は目を奪われた。そして人形達の動きも大きくなってラストに近づいた 時、不意に人形達が青年の元に向かってきた。
「えっ?」
人形は素早く青年の背後に回りこみ……青年の動きを拘束してしまった。腕を掴んだり、服の裾を掴んだりといった感じであらゆる人形が青年の動きを阻害す る。青年も体を動かそうと努力したものの、人形の予想外の力の強さの前では殆ど動けなかった。青年は驚いてアリスに訊いた。
「これは……どういうこと?」
「これはね」
そう言いながらアリスは青年の方に歩み寄ってくる。その姿に青年は初めて少しばかり恐怖した。
「こうするためよ」
「んぷっ!?」
青年には何が起きたか分からなかった。ただ、アリスの顔が一気に目の前に来たと思ったら、唇に何かを押し当てられた感触。数秒後、呼吸がまた出来る様になってから青年はようやくアリスがやった事を理解した。理解した途端、顔が赤くなる。
「ア、アリス……?」
しどろもどろに問いかけるが、アリスも顔を真っ赤にしていた。自分を捉えていた人形も、今は全然力を感じない。
「だ、だってこうでもしないと恥ずかしいじゃない」
「……は?」
顔を真っ赤にしながらそんな事を言われても、まったく説得力は無い。とりあえずこれ以上この件を蒸し返すのはアリスにとっても自分にとっても良くないと思ったので、青年は色々と言いたい事がありながらも我慢することにした。
「ん」
自分の唇をなぞる。先ほどまで感じていた柔らかさはもう無いが、温かさはまだ残っている気がした。それでもいきなりの事なので青年は非常に驚いていた、それと同時に疲れてしまった。
「な、なんだか疲れたなぁ」
「え、そ、そう? 奇遇ね、私もよ」
アリスの返しはまだ若干ぎこちない。ここは一人にしてあげた方がいいと青年は判断し、立ち上がる。
「本当に楽しかった、ありがとう。それじ」
「え? 今日はずっと一緒にいてくれるんでしょ?」
「で、でも流石に一緒に寝るのは……」
「大丈夫よ、私のベッドは案外大きいから。ほら」
ほら、と言いつつ布団をまくりあげるアリス。自分と違う部分を心配しているアリスに、青年はなんだか可笑しくなった。それでも青年はやはり心配だったので、アリスに訊きなおした。
「ほ、本当にいいの?」
「もちろんよ。……貴方以外は絶対にお断りだけど」
そういって微笑むアリスを見て、出会った頃に比べて随分と表情豊かになったと青年は思った。自分がそこまで信頼されてるなら、とついに青年は折れた。ベッドに潜り、体を横にする。少し経って、背中に体温を感じた。
「ア、アリス」
「ち、違うわよ、ほら、大きいって言っても一人用だし……」
青年からはアリスの顔は見えなかったが、きっとこんな顔だろう、と勝手に想像した。眠気と言うものは不意にやってくるもので、青年も何回か会話を交わした後、眠りについた。
「……」
がさごそ。青年が寝たのを見計らって、アリスは青年の方を向いた。顔は見えなかったが、広い背中を見つつ、シャツをそっと握り締めてアリスも眠りについた。
「ん……」
窓からの日差しが眩しい。青年は誰に起こされることも無く起きた。時刻を確認する、時計は十時を回ったところだった。いつあの『金髪の女性』がやってきてもおかしくない。青年はまだ寝ているアリスを起こさないよう、音を立てずにアリスの部屋を出た。
「あら、おはよう」
「!?」
居間に、もう彼女はいた。幽雅に椅子に座り、コーヒーを頂いている。驚きのあまり大声を上げそうになったが、彼女の言葉でそれは抑えられた。
「あの子が起きちゃうわよ?」
「っ……」
「ほら、起き抜けにそんな怖い顔しないで。椅子もあるんだし掛けなさいな」
女性に言われるままに青年は椅子に座る。そして、小さな声でまず最初に、
「どうやって入ったんです?」
この家は鍵を閉めてある。青年は至極全うな質問をしたはずだったが、女性は笑って企業秘密と言うだけで、全然回答を教えてはくれなかった。青年の自身に対する不信感を目一杯高めたところで、女性は言った。
「さて、分かってるわよね。還る準備は出来て?」
女性の言葉に、青年は強く頷いた。
「えぇ。もう大丈夫です。ただし……」
「ただし?」
「場所を、場所を変えてくれませんか?」
いいわよ、と女性は快く承諾した。二人は立ち上がり、アリスの家を出た。青年としてはアリスに見られたくなかった。自身が、いなくなる瞬間を。そして暫く歩き、どこだかわからないが森の中まで入っていた。
「ここらへんでいいかしら?」
「ええ、大丈夫ですところで……」
「心配要らないわ、痛くもなんとも無いから。一瞬よ、それですべてが元通り」
女性の言葉はにわかには信じられないが、青年にはそれが嘘で無いとなんとなく分かっていた。女性の方はと言うと、なにやら目を瞑って呪文のようなものを 唱えていた。数秒後、女性が手にした日傘で空間をなぞると、そこから切れ目のように裂け、何とも言い難い色の空間が見えた。
「これは?」
「これが、貴方を非現実から現実に還すための境界。言ってしまえばこの世界のスキマね」
「この中に入る、と言うことですか」
「そう言う事。焦らなくてもいいわよ」
期限を決めた割に随分と適当だな、と青年は思った。ただし、今はそれが嬉しかった。青年は少しでもこの世界を見ておきたかった。
「そういえば、名前を訊いてませんでした」
「私? 私だったら、『八雲 紫』よ」
「ゆかりさんですか、お別れの時に名前を訊くってのも変ですね」
「貴方の記憶は残しておくから、あながち無駄ってわけでもないわ」
双方笑いが漏れる。紫が青年の目を見据えて言った。
「さぁ、覚悟は出来たかしら?」
「……はい」
一歩。また一歩青年の体がスキマに近づく。とうとう後一歩というところまで来た時、不意に大きな声が聞こえた。
「な、何やってるのよ! 待ちなさい!!」
思わず声のした方を見る。遠くから走ってくる人の姿が見えた、もちろんそれは青年が良く見知った者だった。そして、一番最期を見られたくない人だった。
「ハァ、ハァ、ハァ……どうして」
アリスは青年をキッと睨むと、
「どうして何も言ってくれなかったのよ!」
と、青年が驚くほど大きな声を上げた。森の中を走ってきたものだから、所々に生傷が見えた。目には涙も浮かべている。
「最期は、見て欲しくなかった」
青年は観念して、ありのままを話した。しかしアリスは叫ぶように言った。
「貴方も、愛してる人の最期を看取れなくってあんなに悲しそうだったじゃない! どうして……どうしてわからないのよ!」
「あ……」
そこまで言われて青年は初めて気がついた。最期を看取れないのがどれほど悲しいかは自分が一番良く知っているはずだったのに、その悲しみを今度は自分が生み出そうとしていた事を。
「この感情、貴方がいなくなってようやく分かったわ。……貴方を、愛してる。愛している貴方がいなくなるなんて、私は耐えられないかもしれない。だから、せめて最期までこの目で貴方を見ておきたい」
「アリス……うん、本当にありがとう」
青年はアリスの元に歩いていった。自分のちょうど胸元辺りにアリスの頭があった。青年は何も言わず、ただアリスの頭に手を置いた。青年は無言でアリスの頭を撫でる。アリスも無言で青年の手を感じていた。
「それじゃ、僕は行くよ」
撫でていた手を放し、青年がアリスから離れスキマに向かう。アリスはもう涙でよく見えなかったが、これが最後の会話になるだろうと理解した。
「ええ、気をつけて……さよなら、私の愛しい人」
青年の半身がスキマに入る。そして、全身が見えなくなった。スキマも閉じ、そこはただの森の風景が広がるだけだった。
「若いっていいわぁ~」
紫はなんだか意味深な発言を残し、再び自身が作ったスキマに消えた。一人残されたアリスは、スキマがあった場所を見て、呟いた。
「結局訊けなかったな……あの人の、名前」
冷たい風が吹く。身を寄せて暖めてくれる人はもういない。アリスはその場にしゃがみこみ、嗚咽を洩らした。誰にも聞かれないように、小さい声で。
関わりを持つ事を嫌う少女。
成り行き上で関わりを持つことになった青年は、
少女の心に優しい傷跡を残した。
それはとても切なく、暖かいもので、
少女にとって初めての『アイ』だった。
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