消えてゆく青年の姿を見ていた女性の側には、いつの間にか彼女の僕がいた。
「いいのですか紫様、あのような猶予を与えてしまって……」
どうやら僕の方は紫の決定を不服に思っているようだった。そんな僕に紫と呼ばれた女性は怪しい笑みを浮かべて訊いた。
「では、藍。貴方の今見ている景色が全て夢だったと教えられたら、どう思うかしら」
「いいのですか紫様、あのような猶予を与えてしまって……」
どうやら僕の方は紫の決定を不服に思っているようだった。そんな僕に紫と呼ばれた女性は怪しい笑みを浮かべて訊いた。
「では、藍。貴方の今見ている景色が全て夢だったと教えられたら、どう思うかしら」
「夢、ですか……?」
藍と呼ばれた僕は紫の質問の意図を完全に理解してはいないようだった。
「本当かと疑いますね、そして早く醒めて欲しいと願うでしょう」
藍の返した答えは別に何処もおかしくはない、いたって模範的とも言える回答だった。
「そう、つまり周りのもの全てに現実感がなくなると人は不安になる。その状態で三日間も居続ける事は、果たして本当に楽なことかしら?」
藍はようやく理解した。紫は決して彼を想ってやったのではないという事を。むしろ、自分の愉しみの為にやったのだという事を。
「紫様は、恐ろしいお人だ」
「あら、藍は知っているでしょう」
紫の口元が歪む。
「ところで」
今度は藍が紫に問いかける。
「さっき、あの男の記憶を操作したのは分かりましたが……どのような境界を弄ったのです?」
概念に訴えかける能力は、その対象によっては他の者から見えない時もある。
「簡単よ、過去と今の境界を繋げてあげたの」
「過去と今、ですか」
「彼の過去と今は、とあるところを境に綺麗に裂けていたわ。私はそこを直して、繋げてあげただけ」
「と、言う事は現在のあの男は忘れてしまっていた記憶と、ここ数日の記憶の両方を持っているわけですか」
「そういうことね。過去の現実と、現在の虚構。彼の頭の中は、今かなり混乱しているのではないかしら」
青年が消えた先に、再び紫は目を向けた。記憶を取り戻した瞬間の彼の驚いた顔が脳裏にフラッシュバックする。紫はゾクゾクしていた、久しぶりに人間らしい人間の、普通ではない苦悩を見る事が出来ると思ったから。
「ただいま」
全ての記憶を取り戻した今、この家さえも居心地が悪く感じたがそれでもここ数日の事を思って青年はアリスの家に帰ってきた。
「あら、随分時間がかかったわね」
「あ、あぁ、まぁね……」
返事をするのにも何か引っかかった感じがして上手く応答できない。目の前にいる少女は、人間ではないのだから。
「ちょっと、部屋で休んでていいかな」
うつむきながらそう言う。今はアリスの顔を見る事さえ出来なくなっていた。ここは彼の良く知る家とは程遠い造りで、そこに住む人も彼の知っている一般人とは遠くかけ離れている。一度そういった目で見てしまうと、もう普通に見る事は難しい。
「具合でも悪いの?」
心配そうにアリスが訊く。心配してくれた事に青年は少し嬉しく思ったが、そんな現金な自分に余計嫌気が差した。
「そ、そんなことないけど、少し疲れちゃって」
「そう、じゃあ今晩は私が作るわね。出来たら呼ぶわ」
アリスは創っていた人形を置いて台所に立つ。青年はアリスの後姿をちらりと確認した後、部屋に戻っていった。一人になったアリスはさっきまで青年がいた場所を見て、呟いた。
「何か、あったのかしら……?」
「くそ……!」
ドアを閉め、冥い部屋の中で青年は一人声を殺して言った。
「彼女は命の恩人だぞ……!?」
青年の心の中では葛藤が生まれていた。ここ数日の彼女を、過去の記憶が全て否定しているような感じがした。彼女は人間ではない、この世界は普通ではない、と青年の記憶は今の現状を冷たく否定し続ける。
「え?」
気がつくと、体か小刻みに震えていた。青年自身初めはどうして震えているのか分からなかったが、そのうちふっと気づいた。むしろ気づいてしまったといったほうが正しいのかもしれなかった。
「……怖いのか?」
自分がそれまでいた世界とまったく異なる世界。そこにいる事を意識してしまった時、普遍は異常にすり替わる。まるでここ数日の自分が別人だったかのように青年は思った。
「ここには、僕の知っているものは何もない」
声に出して言うとそれが余計に分かる。真の意味で、青年は孤独だった。あの時、記憶を取り戻してくれた女性の事を思い出す。
「何故、ここに残るといった僕の願いを聞いたんだ? そもそも、どうして僕の記憶を元に戻せた?」
青年は知らない。彼女が概念を操る妖怪で、自分の愉しみの為に青年を利用したということに。気持ちの昂ぶりを抑えて、青年は疑問を一つ一つ解消していった。
「僕の過去……ここに来る前」
女性が辛い過去と言ったのは、嘘ではなかった。愛する人を目の前で失い、青年は自暴自棄になっていた。最後は自分も愛する人の元に向かおうとしていたらしい、しかしその記憶は途中で途切れていた。
「つまり、その直後に何かあってここに来たということか」
次の記憶はこの家。目を覚ました時は頭が働かなかったが、明るい朝の日差しと、自分を心配そうに見つめるアリスの顔が印象的だった。
「それにしても」
青年はこの事にも疑問を持った。
「何でアリスは僕を助けたんだろう……?」
そもそもそこからしておかしいと青年は思った。アリスも何か隠しているのではないか、そうおもうと余計に不安な気持ちが青年を襲った。アリスは記憶を取り 戻すのを逆に阻止していたのではないか、そんな事すら考えてしまいそうになる。しかし青年は確実に分かっている事が一つあった。
「アリスは悪い子じゃない」
これは敢えて口に出して言った。そのほうがより確からしく聞こえるし、何より自分が安心するからだった。今日を入れてあと三日、青年は残された時間をどうしようか考える事にした。だが、それはすぐに中断する事になる。
「ご飯が出来たわよー」
台所からそう呼ぶアリスの声。もう一つ分かっている事があった、それはアリスの作る料理は以外にも美味しい事。青年は思った、たとえこの世界が自分の良く 知る世界ではないとしても、ここ数日間生活してきたのだし、なによりこの家はそんな異質な自分を受け入れてくれたのだ、と。
「あぁ、今行くよー!」
今はまだ、記憶を取り戻した事は言わないようにしよう、そう青年は心に決めた。
藍と呼ばれた僕は紫の質問の意図を完全に理解してはいないようだった。
「本当かと疑いますね、そして早く醒めて欲しいと願うでしょう」
藍の返した答えは別に何処もおかしくはない、いたって模範的とも言える回答だった。
「そう、つまり周りのもの全てに現実感がなくなると人は不安になる。その状態で三日間も居続ける事は、果たして本当に楽なことかしら?」
藍はようやく理解した。紫は決して彼を想ってやったのではないという事を。むしろ、自分の愉しみの為にやったのだという事を。
「紫様は、恐ろしいお人だ」
「あら、藍は知っているでしょう」
紫の口元が歪む。
「ところで」
今度は藍が紫に問いかける。
「さっき、あの男の記憶を操作したのは分かりましたが……どのような境界を弄ったのです?」
概念に訴えかける能力は、その対象によっては他の者から見えない時もある。
「簡単よ、過去と今の境界を繋げてあげたの」
「過去と今、ですか」
「彼の過去と今は、とあるところを境に綺麗に裂けていたわ。私はそこを直して、繋げてあげただけ」
「と、言う事は現在のあの男は忘れてしまっていた記憶と、ここ数日の記憶の両方を持っているわけですか」
「そういうことね。過去の現実と、現在の虚構。彼の頭の中は、今かなり混乱しているのではないかしら」
青年が消えた先に、再び紫は目を向けた。記憶を取り戻した瞬間の彼の驚いた顔が脳裏にフラッシュバックする。紫はゾクゾクしていた、久しぶりに人間らしい人間の、普通ではない苦悩を見る事が出来ると思ったから。
「ただいま」
全ての記憶を取り戻した今、この家さえも居心地が悪く感じたがそれでもここ数日の事を思って青年はアリスの家に帰ってきた。
「あら、随分時間がかかったわね」
「あ、あぁ、まぁね……」
返事をするのにも何か引っかかった感じがして上手く応答できない。目の前にいる少女は、人間ではないのだから。
「ちょっと、部屋で休んでていいかな」
うつむきながらそう言う。今はアリスの顔を見る事さえ出来なくなっていた。ここは彼の良く知る家とは程遠い造りで、そこに住む人も彼の知っている一般人とは遠くかけ離れている。一度そういった目で見てしまうと、もう普通に見る事は難しい。
「具合でも悪いの?」
心配そうにアリスが訊く。心配してくれた事に青年は少し嬉しく思ったが、そんな現金な自分に余計嫌気が差した。
「そ、そんなことないけど、少し疲れちゃって」
「そう、じゃあ今晩は私が作るわね。出来たら呼ぶわ」
アリスは創っていた人形を置いて台所に立つ。青年はアリスの後姿をちらりと確認した後、部屋に戻っていった。一人になったアリスはさっきまで青年がいた場所を見て、呟いた。
「何か、あったのかしら……?」
「くそ……!」
ドアを閉め、冥い部屋の中で青年は一人声を殺して言った。
「彼女は命の恩人だぞ……!?」
青年の心の中では葛藤が生まれていた。ここ数日の彼女を、過去の記憶が全て否定しているような感じがした。彼女は人間ではない、この世界は普通ではない、と青年の記憶は今の現状を冷たく否定し続ける。
「え?」
気がつくと、体か小刻みに震えていた。青年自身初めはどうして震えているのか分からなかったが、そのうちふっと気づいた。むしろ気づいてしまったといったほうが正しいのかもしれなかった。
「……怖いのか?」
自分がそれまでいた世界とまったく異なる世界。そこにいる事を意識してしまった時、普遍は異常にすり替わる。まるでここ数日の自分が別人だったかのように青年は思った。
「ここには、僕の知っているものは何もない」
声に出して言うとそれが余計に分かる。真の意味で、青年は孤独だった。あの時、記憶を取り戻してくれた女性の事を思い出す。
「何故、ここに残るといった僕の願いを聞いたんだ? そもそも、どうして僕の記憶を元に戻せた?」
青年は知らない。彼女が概念を操る妖怪で、自分の愉しみの為に青年を利用したということに。気持ちの昂ぶりを抑えて、青年は疑問を一つ一つ解消していった。
「僕の過去……ここに来る前」
女性が辛い過去と言ったのは、嘘ではなかった。愛する人を目の前で失い、青年は自暴自棄になっていた。最後は自分も愛する人の元に向かおうとしていたらしい、しかしその記憶は途中で途切れていた。
「つまり、その直後に何かあってここに来たということか」
次の記憶はこの家。目を覚ました時は頭が働かなかったが、明るい朝の日差しと、自分を心配そうに見つめるアリスの顔が印象的だった。
「それにしても」
青年はこの事にも疑問を持った。
「何でアリスは僕を助けたんだろう……?」
そもそもそこからしておかしいと青年は思った。アリスも何か隠しているのではないか、そうおもうと余計に不安な気持ちが青年を襲った。アリスは記憶を取り 戻すのを逆に阻止していたのではないか、そんな事すら考えてしまいそうになる。しかし青年は確実に分かっている事が一つあった。
「アリスは悪い子じゃない」
これは敢えて口に出して言った。そのほうがより確からしく聞こえるし、何より自分が安心するからだった。今日を入れてあと三日、青年は残された時間をどうしようか考える事にした。だが、それはすぐに中断する事になる。
「ご飯が出来たわよー」
台所からそう呼ぶアリスの声。もう一つ分かっている事があった、それはアリスの作る料理は以外にも美味しい事。青年は思った、たとえこの世界が自分の良く 知る世界ではないとしても、ここ数日間生活してきたのだし、なによりこの家はそんな異質な自分を受け入れてくれたのだ、と。
「あぁ、今行くよー!」
今はまだ、記憶を取り戻した事は言わないようにしよう、そう青年は心に決めた。
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